慣れてしまった石けんネット
Facebookで面白い見出しの記事があるから見ようと思ってクリックすると必ずと言っていい程エッチな広告が付いてきますよね。あれなんとかならないんですかね。別にエッチなもの見たくてクリックしてる訳じゃないのに、あれが出てきちゃうからなんかその記事を調べていること自体が恥ずかしい。あまりのエッチな広告の多さに、下までスクロールして目当ての記事を読むのも気が引けてきちゃうことありますよね。まぁ大体は男性用にあぁいう広告は出されているんでしょうが、あぁいう広告からエッチなものを見るのってあんまりないですよね?見ます?たぶん見ない人のほうが多いんじゃないかな。
でも、あのエッチな広告が出た時に「またか」って思いながら、クリックしないまでも少し見てしまう時ありますよね。別に何も思わないんですけど、なんか無意識に見てしまう感じ。たぶん本能なんでしょうね。
少し色気を感じてしまう写真にはすぐ目がいってしまうのはしょうがないことなんです。見ようとなんて思ってない。目に入るから脳が勝手に確認するためにもう一度見ようとするんです。ただそれだけ。確認作業です。たまに番組の特集とかでアフリカの原住民族の密着ドキュメンタリーとかありますよね。だいたいの女性がトップレスで生活しています。そういう原住民族のトップレス女性を見てもなぜか脳の確認作業って入ってきますよね。見ても何も思わないんです。だけど見てしまう。たまに不快な感じになったりもします。
そういう時に思うんですよね、なんで同じ物でもここまで質が違うんだって。原住民族の胸ってなんか小学校の水道に吊るされてあった石けんネットのような形してますよね。ネットの先っぽだけなんか入ってるからめちゃ垂れてるやつ。原住民族のも先っぽ持てば泡立つんじゃないかみたいな。
なんであそこまで垂れてるんでしょうか。考えてみたんですよね。おそらく専門的と言うかいろいろな原因はあるんでしょうけど、最後の決め手は“慣れ”だと思うんですよね。トップを隠さない文化で、毎日のように見せているから原住民族の石けんネットも、もう張りとかどうでもいいやってなってるんでしょうね。めちゃ張りのある石けんネット見たことないですもんね。
“慣れ”って怖いですよ。どんなに違和感のあるもので不快なものでも慣れてしまえばなんとも思わないんです。でも、なんとも思わないのは自分だけで、周りは違和感を覚えたままです。自分の中の感覚が慣れただけで、自分を取り巻く社会はまったく慣れていません。ブスは3日で慣れるって言いますよね。「ブスは3日で慣れるっていうから大丈夫だぜ」って言う奴がいるけど、なんのアドバイスにもなってない。慣れるだけでブスじゃなくなるわけじゃないんです。元は変わってない。なんか“慣れる=変わる”だと勘違いしている気がします。
どんだけ騒がれている問題でも慣れてしまえば問題なかったように扱われます。問題の本質は変わっていない。4年前の福島原発の放射能問題もあんだけ騒がれて、東京のいたる所で放射能計測活動が行われてきたのに、時間が経つと慣れてきて、いつのまにかもう私たちの頭の中からは消えている。放射能物質は消えていないのに。
“慣れる”って怖いことであると同時にとても便利なことでもあります。自分もそろそろエッチな広告がでてくることに慣れたいものです。
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